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千葉県民の端午の節句はコレに決まり!!
千葉ゆかりの戦国武将、本多忠勝(ほんだただかつ)祭り。
本来、節句の風習はその土地の歴史や風土に根付いた伝統行事でもありました。しかし近年、あふれかえる情報の波や、大量生産による節句品の画一化により、その地域特有の個性が薄れてきているという時代背景があります。 そんな現状に一石を投じるべく、私たちは今回、千葉県ゆかりの戦国武将である本多忠勝(ほんだただかつ)に注目、その鎧や兜のセットを多々取り揃えさせて頂きました。千葉で生まれ育つ男児の初節句をきっかけに、自分たちの住む土地の歴史や文化を再認識し、これまで知らなかった事柄にもっと気づいてもらいたい!!それが私たちの思う『節句のもう一つの楽しみ方』です。今後そこからまた新しい『何か』が生まれるかもしれません。
千葉県鎌ヶ谷市発、甲冑制作は名門甲冑工房「雄山」に依頼。
目指したのは節句文化の地産地消!!
近年増加傾向にある海外製の節句用品。安さや利益だけを追求する店鋪が多くなれば、当然国内の優れた職人の数は減り、技術力も下がり、子供たちの成長を願う節句文化が衰退してしまうコトは明らかです。私たちは日本の工芸品のもつ『美しさ』にこそ重点を置き、制作は日本屈指の名門甲冑工房『雄山』に依頼。現存する国宝や戦国武将の甲冑を忠実に模写する技術力は業界屈指。その細部に至るまで、徹底的に作り上げる技の数々には【文化継承の責任】と【モノづくりに携わる職人のプライド】を感じさせます。またその工房所在地はナント千葉県鎌ヶ谷市。千葉県ゆかりの名将の甲冑を、千葉県の卓越した職人らが制作。それが千葉に生まれ育つ男児に贈られたなら、それはまさに【節句工芸品の地産地消】とも呼べるのではないでしょうか?
素材の吟味からまで、細部にまで見られる技の数々…
これこそが甲冑職人、匠の技!!
忠勝のトレードマーク【大鹿角脇立】。大量生産が可能な鋳物ではなく、木彫の木製品。手作業による工芸品ならではの味わいを感じるコトができるはず。
【獅噛前立/しかみまえたて】と呼ばれる兜前面の飾り。獅子(しし)の怒りの形相には霊的な力があるとされ、『魔除け』の意味が込められた。これは当時戦国武将たちの間で流行し、武田信玄や徳川家康らも自らの甲冑に取り入れている。当然こちらも木彫の木製品。
後頭部から首まわりを保護するための【シコロ】部分には牛革を使用し、段に分けられて配置されている。またシコロの穴に一つ一つ正絹の威糸を通し、【素掛威/すがけおどし】とよばれる技法を用いて、段と段とを連結させている。
本体の中核を担う【小札板/こざねいた】も、もちろん牛革製。高級革靴10足分にも及ぶ本革を贅沢に使用したいくつもの小札板を、根気強く【素掛威/すがけおどし】で連結させていく。柔らかくしなやかな極上正絹の威糸のため、実は穴にそれを通すのも一苦労。
トレードマークの二つ目【大数珠/おおじゅず】。漆黒の甲冑の中、美しく輝く金色が見るものを魅了する。木製の数珠の上には一つ一つ丁寧に金箔押しが施され、職人の卓越した技術が感じられる仕上がりになっている。
【当世具足/とうせいぐそく】とよばれる甲冑にみられる特徴も見事なまでに再現。腰回りを防御する鎧下部のスカートのようなモノは【草摺/くさずり】とよばれるが、これもしっかり5枚以上。その時代考証まで気を使うところにこそ、一流の仕事が感じられる。
トレードマーク三つ目の、忠勝愛用の名槍【蜻蛉切/とんぼきり】も制作。担当したのは雄山率いる創作人形工房『壱三』。その梵字までも忠実に再現。【天下三名槍/てんかさんめいそう】の一つで、槍の穂先に止まった蜻蛉が真っ二つに切れたことからその名がついた。
本多忠勝(1548〜1610)とは?
幼い頃より徳川家康に使え、『徳川四天王』の一人として活躍した戦国武将。
千葉県夷隅郡「大多喜城」の初代藩主で、街の発展に大きく貢献する。幼少の頃の名前は『鍋之助』、あだ名は『平八』。初陣は桶狭間の戦いで、このとき13歳。
語り継がれる忠勝伝説
- ●『ただ、勝つのみ』という理由から、徳川家康に【忠勝】と命名される。
- ●【一言坂の戦い】でその名を世に知らしめる。このとき敵方、武田家の近習であった小杉左近(こすぎさこん)が、戦いの後に有名な一句を残す。
『家康に過ぎたるモノは2つあり、唐の頭に本多平八…』
※この狂歌は『家康には彼が使うのにはもったいないモノが2つある、一つは彼の集める中国渡来の兜、もう一つは家臣の本多忠勝である』という内容で、忠勝の活躍ぶりを賞賛する意味が込められている。
- ●人を褒めないことで有名な信長からは『花実兼備の勇士』と称えられ、秀吉からは『日本第一古今独歩の勇士』と惚れ込まれ、主君の家康は『その働き比類なし、我が家の良将』とその並外れた武勇と人間性を高く評価されていた。あまたいる戦国武将の中、時の天下人三人全員から称えられたのはおそらく忠勝のみ。
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●戦国時代、裏切りや寝返りの多い中、始めから最後まで一貫して家康への忠義を貫いた「義」の男。
- ●武勇もさることながらその知略も極めて高く、帷幕では家康の補佐役として逆に助言を行ってもいた。
- ●13歳の初陣から関ヶ原の戦いまで、最前線で奮闘しながらも生涯57回の戦いの中で『かすり傷一つ負わなかった』と伝えられる。
圧倒的な強さ、合理性を伴う知識力、かすり傷一つ負わない強い身体と強運、そして義を貫く心…
男児への健康と成長を願う端午の節句に最も相応しい戦国武将は、これらを持ち合わせた本多忠勝なのではないでしょうか?千葉県民のみならず、私たちは初節句を迎える皆さまに心からお薦めしております。
本多忠勝の軌跡を訪ねて…
どこかノスタルジックな風の吹く町、大多喜
本多忠勝が大多喜城を築城したことにより、城下町として発展した房総の小江戸大多喜。昔の面影を残す城下町には、忠勝に所縁あるスポットもいろいろ存在。休日はカメラ片手に「いざ、大多喜へ!!」
大多喜散策で外せないのはコチラ。
1590(天正18)年に本多忠勝が築城した難攻不落の要塞、大多喜城。現在の天守閣は昭和50年に千葉県指定史跡・上総大多喜城本丸跡に建てられ、館内は千葉県立中央博物館大多喜城分館となっています。
現在、忠勝の眠る墓は分骨され2ケ所ありますが、そのうちの一ケ所が大多喜の良玄寺。墓地には忠勝の墓とともに本多忠勝夫人と二男忠朝(ただとも)の五輪塔が建てられています。ちなみに良玄寺には、かの有名な【紙本著色本多忠勝像】がありました。(現在は千葉県立中央博物館所蔵)
え!?忠勝がココでお砂場遊びを!?
…
というわけではなく、ここは良玄寺の一角にある公園。実はこの場所…忠勝さながら危機一髪の人々を救ってくれる場所でもあります。(その理由は行ってみてからのお楽しみ)
この銅像、これぞまさしく本多忠勝!! 威風堂々としたたたずまい…渋いです。普通の銅像なら駅前や公園などに鎮座していますが、忠勝像はそんな簡単な場所では見つかりません(笑)。ちなみに反対側には立ち姿の忠勝像もありました。 どこにあるか探すのも旅の楽しみというコトで。
千葉県民でもそうでなくても、
本多忠勝の甲冑を購入した方はもちろん、そうでなくても、
必見、「大多喜お城祭り」!!
大多喜お城祭りをご存知ですか?明治4年(1871年)7月、廃藩置県とともに大多喜城は廃城となり、城内の建造物はすべて破却されました。昭和41年5月、上総大多喜城本丸跡が県史跡として指定され、昭和50年9月、大多喜城(現・千葉県立中央博物館大多喜城分館)が建設されたのを記念し、当時をしのび毎年お城まつりが開催されています。
ここでは本多忠勝侯一行に扮(ふん)した武者行列やみこしの渡御が城下町に繰り出します。メイン会場(大多喜小学校/おまつり広場)では、町のイメージソング「花盛りの町大多喜」の曲目に合わせ、微笑ましい保育園児によるダンスの発表、友好交流都市荒川区より参加の荒川区天王太鼓の演技、祭囃子の競演、千葉県鳶伝統文化振興会による梯子のりの演技などが繰り広げられます。さらに、サブ会場(大多喜城/千葉県立中央博物館大多喜城分館)及び商い資料館では、琴の演奏、野点、振舞い酒などの催しものも開かれ、大多喜城下はおまつり一色となります。
武者行列のスタートは大多喜城から。火縄銃の音を合図に、一行はメインのお祭り広場(大多喜小学校)へと向かいます。そこで参加者はさらに増え、パレードは市街地沿道へと繰り出していきます。
パレードの中心にはもちろん本多忠勝の姿が!!騎乗した戦国武将、その周りを彩るたくさんの旗持ち、煙りをあげる火縄銃、そして歴史情緒あふれる町並み…と、まるで戦国時代にタイムスリップしたかのようになること請け合いです。
参加者の中には『大多喜手作り甲冑隊』なる姿が。この団体、実は地元の方々が半年近くかけて丁寧に制作した鎧や兜を身に着けているのです。使われている素材はなんとダンボール!!そのためお祭り当日の天気は、皆さんとても気にしているとのコト。それにしても完成度高いな〜。
- 【期 日】
- 平成24年9月29日(土)~30日(日)予定 ※雨天中止
- 【場 所】
- 大多喜小学校、市街地ほか/夷隅郡大多喜町
- 【交 通】
- いすみ鉄道大多喜駅から県道大多喜里見線まで徒歩3分、
大多喜小学校まで徒歩5分、大多喜城まで徒歩20分
【問合先】大多喜お城まつり実行委員会
(大多喜町商工観光課内)
【TEL】0470-80-1146
【URL】http://www.town.otaki.chiba.jp/



















